例えば
己が存在すると云う証明をしてみろ‥
などと言ってみた処で
その努力には余り意味が無い。
と云うのも、そもそも存在と云った物の意味、概念がはっきりとしない。
従って先ずは存在の意味を正しく定義しておかなくてはならない。
しかし、そうなると此れは大そう厄介な仕事と成る。
仮に知識と弁論に恵まれた人間であったとしても、そして導き出された回答に多少目を瞑ったとしても、なお再考する様文体の分解再構築が求められるのだ。
つまり、この文章の場合、存在以外‥例えば己であるとか証明であるとか‥の意味から一つ一つ探らねばならないのだ。
その結果解る事柄と言えば
なんともお粗末な質問であったかと云う結論に落ち着くのではないか。
とは言うものの
此の不完全なる質問に答えなければ、此のページも余り意味の無いものになってしまうだろう。だから、
此所は敢えて此の漠然とした質問に、たとえソレガ答えになって否かろうと答える事にする。そして、それはきっと更に此の質問自体を不透明な物にするであろう事を想像し、同時に其の内容に関わらず回答は尊重されるだろう。
存在の証明が
他社の目を通して初めて行われる…というのは殆ど間違いないところだろう。
何故なら其の行為(存在「己」の証明)とは其れ自体がつまらぬ些細な自己満足に過ぎないのだから。
稚拙で愚行とも言える行動を重要に考えるのは既存の規範、社会の規範つまり外界の目に知らずの内に拘束されているからに他ならない。
本来的には自己の存在など全く意味の無い事柄であるにも関わらず。
とは云うものの
それでは今回の命題
「自己の存在を証明せよ」自体にも意味がなくなってしまうので、此処は敢えて下衆な世界で考察を試みよう。
そこで先ず
例えば己自身によって自己の存在を証明出来るか?想像してみよう。
するとどうだろう?
これは相当に難しい仕事ではないか。
そして恐らく証明することは不可能だ。
何故なら己自身の中でそうした問題疑問はそもそも存在し得ないからである。
必要とされないからである。
従って
現実社会においてこうした命題を考えるにおいては社会通念を抜きには出来ない。社会通念、道徳、規範、法律、聖書、学問…
詰まる処、我々は常に、或いは潜在的に他者の目を気にして生きているのである。
そうした他者の目と云った物は物理的な様相を超えていつしか概念的な存在となってくる。
だから
もし現実社会において此の命題に答えるとしたら、そうした数々の概念的規範と己を照らし合わせれば良いのだ…と云う事になるだろう。
己は道徳的にどうなのだろう?
己は法律的にどうなのだろう?
己は宗教的にどうなのだろう?
と云った具合である。
一般的な尺度の中で何れ程の位置に属するのか?を探る事…それ自体が今回の問いに対する答えだ。簡単な事である。
そして其れは同時に稚拙でお粗末な回答である。
…が、致し方あるまい。
さて以下はおまけです。
例えば
貴方が作曲家であったとしよう。
そして自己の才能と作品に絶対の自信があるにも関わらず、どういう訳か全く売れない。
理由を少しだけ考えてみてください。
もしかして
貴方は見下していませんか?
此奴等などに真の芸術が理解出来る筈が無い。
付いて来れない奴等。
なんて考えてたりしたら…
そりゃあ
売れなくて当然ですよ。
なんせ
そうやって社会を批判しておいて
その社会に向けて己の才能を理解しろ!って言いってる訳ですから。
だから
そうなると
貴方は売れるためには
社会に迎合した方が良いと言うことになるでしょう。
少なくともポーズだけでも整えた方が良いのです。
つまる処
社会性と云った中においては既存の枠を超えた崇高な芸術など理論的に存在出来ない訳です。
そもそも貴方の存在とは貴方の周りを取り囲む社会的通念との折り合いの中にあるのです。少なくとも、社会的通念と云った概念内においてはそうした取り決めになっている様ですから。
まあ、だから貴方がもしも売れない作曲家さんだったとしても悲観しないでください。
勿論全員とは言いませんが貴方も
そうした真の優れた作曲家さん達の一人である可能性もあるのですから。