狭義では、江戸時代末期に来航した欧米の艦船を意味する。其の代表が所謂ペリーの引き連れた艦隊になるであろう。世界史の中における日本の開国…明治維新の始まりは此の辺りからとなるのだろうか。未だ帆掛け船の鎖国時代に日本人は其の巨大な蒸気で動く鉄の黒い船を見て何を思ったのだろうか?
ところで江戸時代と云うのは鎖国と云う極めて特殊な環境ではあったものの当時の諸外国の都市と比べても巨大都市(主に人口密集の意味が強いが)であったようだ。またリサイクル都市であったと云うのも本当の処だろう。自己完結しなくてはならない状況では当然の事と考えられる。当時の其れ等は主に人の労力に依ってなされたのは容易に想像出来る。そうした裏には確かに身分制度等的な側面もあったかもしれない。しかし文化的にもかなりの成熟度を持ち道徳や教育の面においても庶民の日常に根付いていた様だ。江戸の写真は極めて少なく貴重だが、絵葉書などで見る当時の江戸の様子は例えばベニス等の風光明媚な都市と比べても引けを取らない美しい街並みである。其の美しさを演出している一つの要因はベニスと同じく河…運河が数多く横たわっている事に依るだろう。数多くの河は重要な交通手段であったが、現在その殆どを我々は見る事が出来ない。埋められてしまったからだ。明治、大正、昭和…主に昭和の高度成長期に道路等に変えられてしまった。もしも其れ等運河連が残っていたなら先のベニス等と並ぶ大変な観光資産であった事だろう。
そうした事は一つの象徴的な例に過ぎないが…
さて極めて個人的感想になるが、大まかに言って【明治維新】…【外圧としての黒船】の意は現在、日本の近代化に貢献したとして概ねプラスの評価を与えられている様である。だが果たして其れ程盲目的で良いモノであろうか?…私の考えでは現代社会の抱える諸問題は正に明治維新から始まった事柄であり明治維新ソノモノが齎したと云っても良いとさえ思っている。特に道徳的な腐敗は此の時点がスタートであったに違いない。美徳は何処へやら…金至上主義、これを資本主義と云うのであろうか?坂本龍馬が持て囃される様になったのは暫く後になってからの様だが、青春グラフティとしては面白いかもしれないが只其れだけの事である。海援隊の意味もやはり社会構造の変化に伴う低俗な方向性しか見えてこない。後に福沢諭吉が一万円札になったが、余りに象徴的で此れも苦笑のひとつである。象徴的と云えば【爵位】の問題も面白い。明治政府を樹立した後彼等は何をしたか?貴族制度?を廃止?した後で…そう新しく爵位を造り出し自らありがたがったのである。【新華族】…甚だ悲しくも滑稽な出来事ではあるが、其れ等は明治政府の根本理念がどの辺りにあるのかを伺わせる。ただそうした事柄は大きな歴史の転換の中で起こった事であり致し方ない側面もある。アメリカ独立、フランス革命…
【民衆に依る民衆の為の政治或いは社会】…は時代としての共通項となった。そしてあれから果たしてどれ程の月日が流れただろうう。現代においては【民衆に依る民衆の為の政治或いは社会】はそろそろ成熟していても良い筈である。…ところがどうだ!現代においては道徳的価値観は皆無であるし価値基準は金銭のみである。街にはがつがつとした人々で溢れマナーの意味さえ解らない。意味不明な犯罪と盲目的な労働、精神的充足を求めつつも現実には物欲に支配された人々。つまり此れ等が【民衆に依る民衆の為の政治或いは社会】の正体であったと云う事なのではないのか?カーストと云う概念或いは貴族制度について此処で論じようとは思わないが、社会に於ける【スローガン】はそろそろ架け替えの頃合いいのではないかと思うのだが如何であろうか?
前述の様に…結局日本に於いても一種の革命のヨウナモノ?が黒船の来航とともに齎された事になる。但し無血と云えば聞こえは良いが然したる意識革命も無いままに執り行われた革命?なのである。とりわけ一般市民にとっては無血な訳であり其の事は冷静な視点で見る限り其の後の社会の在り方に良からぬ陰を落した様に思われる。
また【民衆に依る民衆の為の政治或いは社会】の疲弊についても触れたが…そもそも【民衆】【大衆】とは一体何者を指すのか?を考えてみたい。大衆とは普通、多くの一般的価値観を共有する人々の集団等を指すのだろう。時として労働者階級を指すかもしれない。彼等の通う店を大衆食堂等と呼んだりするが、逆には高級レストランがあるのだろうか?大衆文学の対には純文学がある。多くの人々に受け入れられる通俗性を持った文学…方や純粋な文学史観?に基づく文学と云う事である。乱暴に大雑把に言ってしまえば低俗なモノと高級なモノとの差異と云う事か?こうして考えると【大衆】…通俗或いは低俗なる者が政治や社会の重要な部分の占有率を高めて来たと言えるのではないか?…等と云うと少々言い過ぎであろうか?
では何を期待するか?大衆食堂で定食を喰おうが高級レストランでコース料理を喰おうが大した問題ではない。結局の処、目利きの出来る人間がどれだけいるかと云う事である。目利きとは一般的には古物等の良し悪しを見極める目を持っている事或いは人の意味である。真の目利きはそう単純ではない…例えば骨董店の店先に並ぶ器が有田焼であるのか唐津焼であるのか?が解る目の事ではなくまた名人の作か無名の作かを見分ける目の事でもない。つまり多くの焼き物に関する知識に基づいて其の器を判断するのではなく、逆に其れ等とは相反する処に真の目利きが存在する。知識や一般概念等とは無縁の処でソノモノ自身を見極める目の事である。従って其れは修練や技術等と云った凡そ努力等で会得する事の出来ぬ物であり、生まれながらにして(遺伝子?)備わっているか若しくは物心つかぬ頃の経験に委ねられたモノとでも言えようか。そうした判断力は社会通念とは別の処のものであり個別にそうした判断基準を持つ人種の事である。さてかような人種は時として天才や特別な物として持て囃されたりもするが、其れ等はほんの一部過ぎず大半は社会から疎外されるべき運命を担わされている。科学者や哲学者、文学者、画家、音楽家、詩人、文学者…現在報われない環境におられる方もいるであろうが逆に言えば現代社会に於いては大衆に飲み込まれていなければ認められないとも云えるのである。そして其の物自体の本質的価値を見極める、或いは判断する為には其れ以上の若しくは少なくとも同等の本質的価値判断能力を有していなければならない訳であり大衆の側に其れ程のキャパシティは無い様に思われる以上悲観の必要も無いと思うのである。但しこうした環境が現実社会の実態であり、どのような個人も此の社会の中に生きている或いは生きて行かなければならない訳であり其の辺の相談が難しい処ではあるのだろう。何れにしても私はそうした大衆的ではないが故に一種社会から孤立を余儀なくされている方々に細やかなエールを送りたいと思う。